秋葉忠利著書 アメリカ人とのつきあい方 映画とポップコーン

映画とポップコーン   

私の親友ジョウはバーモント州の小さな大学で教えています。高校生と中学生の二人の女の
子のとてもよい父親ですが、こと映画になると二人にとても甘くなります。未成年に見せて
はいけないことになっている「R印」(<R-Rated>Rはrestroctedつまり制限つきという意
味です)の映画でも、子どもが見たがり、彼が大丈夫だと判断すれば平気で子どもたちに見
せています。息子ジミーの見たがる映画について、私も同じ態度をとってきました。映画好
きのジョウ(そして私自身)が子どものころからつちかってきた鑑賞眼と批判力を私は信頼
しています。それが、こうして父から子へと引き継がれてゆくのです。 ビデオが普及し、
借りられる映画の数がかなり多くなってから、ジョウ一家は映画を見るために、はじめてカ
ラー・テレビを買いました。それでも一家揃って、ひんぱんに町の映画館に出かけます。私
もたまにつきあいます。封切の映画を見るためでもありますが、映画館で映画を見る雰囲気
を味わいに行くのです。
 それは、ポップコーンの味につながっています。映画館に入ると、ロビーの売店で、バレ
ル(樽)と呼ばれるほど大きな紙製のコップに入った、バターつきのポップコーンを買いま
す。映画を見ながら、これを何人かで食べるのですが、手はベトべトになるし音もします。
栄養の点からもあまりよくありません。でも、これが楽しみで映画館に行く人も多いのです。
エルムウッド・パークで見た映画は、ミュージカルの『南太平洋』《South Pacific》やド
タバタ喜劇それに西部劇、とにかくなんでも見に行きました。 
なかでもいちばん印象に残っているのは『渚にて』でしょう。ネビル・シュート作の同名
の小説がベスト・セラーになっており、学校や家でもしばしば話題になっていました。核戦
争によって北半球には人間が住めなくなり、生き残った人々はオーストラリアに逃げるので
すが、そこも放射能に冒され、人類が絶滅する物語です。 音楽の時間に習ったオーストラ
リア民謡『フルツィング・マチルダ』が映画のなかで人間の悲しさを奏で、フレッド・アス
テア演ずる粋な原子物理学者が、絶望の末自殺するシーンでは、疑問を感ずるどころか、あ
こがれの気持さえもちました。しかし、いちばん心に残ったメッセージは最後のシーンに現
れました。人っ子一人いなくなったシドニーの町に救世軍の残した横断幕がはためいていま
す。その幕には“Brother,there is still time.” (「兄弟よ、まだ時間は残されている」
)と書かれていました。救世軍が伝えようとしたのは、罪を悔い改めクリスチャンになれば
、魂は救われ天国に行ける。そのための時間は残されているということでした。しかし、映
画の製作者が伝えたかったのは、いま、私たちが行動を起せば、核兵器による人類の破滅は
避けられる、ということだったにちがいありません。私にもそのメッセージは強く伝わって
きました。 エルムウッド・パークは演劇のずいぶんさかんな町でした。学校の演劇クラブ
の公演が一年間に四回ありました。ミュージカルの『七六のトロンボーン』と『アニーよ、
銃を取れ』が印象的でした。『アニーよ、銃を取れ』のなかには辮髪の中国人の役があるの
ですが、唯一の東洋人だからと、その役を振り当てられました。エルムウッド・パークの大
人のアマチュアの演劇グループの公演を見に行くこともありました。
 でも、劇の会話がわかるようになるまで、ずいぶん時開がかかりました。一つには、映画
にくらべると、戯曲のほうがむずかしいことばを使っているからでしょう。また映画には背
景があり、小道具や大道具も現実に近いので、どういう状況で劇が進行しているのかあまり
想像力やことばに頼らなくても、あるいはアメリカ社会をそれほど知らなくてもわかるよう
にできているからなのかもしれません。
 映画がわかりやすいもう一つの理由は、音楽がついていることです。映画音楽だけを切り
離して味わう人もいるくらいなのですから、音楽が映画の楽しみを幾層倍にもしている点に
はあらためて言及するまでもないでしょう。そして音楽が、ティーンエイジャーの生活と切
っても切れない関係にあることは、日本でもアメリカでも同じです。

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