アメリカ人とのつきあい方 プロローグ

    氷川丸でシアトルへ


 私かはじめてアメリカヘ渡ったのはいまから30年ほど前、1959年9月のことです。
まだ飛行機の旅かそれほど一般化していない時代でした。
私たち約60人の日本の高校生は、AFS留学生として1年間、アメリカの
高校生活を体験するために渡米したのです。いまは横浜の山下公園につながれている氷川
丸で、8月末横浜から出帆、約二週間の旅の後シアトルに着きました。
 同じ船には約3〜4週間を日本ですごした後、自分たちの国に帰るアメリカの高校生たちも
乗っていました。また、フルブライト留学生としてアメリカに渡る日本の大学院の学生や
研究者も同乗していました。
 同じAFSの留学生同士ですから、私たち日本人高校生とアメリカ人高校生はすぐ仲よ
くなりました。でも、私たちが失望したのは、アメリカの高校生が好んで話し相手に選ん
だのが同じ年代の私たちではなくて、ずっと年上のフルブライト留学生たちだったことで
す。私たちの英語力の低さもあったでしょうが、なによりもアメリカの高校生たちの関心
事や知識の性質が、私たちとはずいぶんちがっていたからだと思います。
 船のなかでは、今後の日米関係について、共産主義の脅威について、日本の文化や習慣
についてなど、幅広いテーマにわたってディスカッションをしましたが、私たち高校生に
は十分説明のできないような事柄が多く、また内容はわかっていても英語で表現できない
ことがたくさんありました。おそらくフルブライト留学生の大学院生や研究者たちは、そ
うした問題について、アメリカの高校生に私たちよりはずっと要領よく説明できたのでは
ないかと思います。
 船旅はもちろん、二週間もの旅行は私たちの多くにとって、はじめての経験でした。船
酔いには二日目あたりからみな苦しめられました。船に積める真水の量には限りがあるの
で、風呂は海水を熱したものだ・・・と先輩が話してくれましたが、いま考えるとほんとう
にそうなのかな、という気もします。晴れた日には船のわきを飛びはねるイルカに目を見
張り、濃霧のなか、汽笛を聞きながら、生れてはじめてコカコーラという変な味の飲み物
を口にしました。
 夜になると、ラウンジに集って社交ダンスの練習をしました。先生はアメリカの高校生。
教えてもらったのは、ジルバを中心にアメリカの高校で人気のあるおどり方でした。数日
後には、ほとんどみな、うまくおどれるようになりましたし、中年になったいまでも「ジ
ルバなら」という気持が私たちの仲間にはあるようです。
 日付変更線を越え、船内コンサートでショパンを聴き、宇募なしのアメリカ映画を見て
いるうちに、やがて氷川丸はシアトル沖に着きました。
  シアトルはアメリカの西海岸北部にある人ロ約50万(1988年)の中都市です。シア
トル上陸前夜、氷川丸の丸窓から、はるか遠くにともるシアトル税関タワーの灯をながめ
るうち、本当に私はアメリカまでやってきたのだと感じることができました。映画や写真
から想像していた総天然色のアメリカの華やかさにくらべて、ロマンチックではありまし
たが沈んだアメリカの第一印象でした。
 翌日の昼過ぎ、シアトルに上陸しました。まばゆい太陽の下、シアトル港を見下ろしな
がら、これからの一年間アメリカで生活する不安と、目の前の港の汚さが入りまじって、
ちょっと緊張したことを憶えています。アメリカにも汚いところがあるなどとはそれまで
考えもしませんでした。でも、アメリカの汚さが、日本の、なんとなくかたちのない雑然
とした汚さではなく、極彩色のスラム街といった輪郭のある汚さだったことには感心しま
した。
 私たちAFS留学生は、シアトルからそれぞれアメリカ各地に分散していったのです
が、私はジカゴ郊外のエルムウッド・パークという小さな町で一年聞暮すことになってい
ました。                                       
 エルムウッド・パークヘ行くために、シアトルからシカゴまで、生れてはじめて、飛行
機に乗りました。疲れていたので機内ではとにかくよく眠りました。いっしょに行った仲
間たちがつぎつぎと飛行場(その頃はまだ、「空港」という呼び方は一般的ではありません
でした)で降りるたびに、受け入れるホスト・ファミリーやハイスクールの友だち、ある
いはその町の人たちが日本からの留学生を迎えにきていました。
 昼近くに、シカゴのオヘア飛行場が近づくにつれて飛行機が高度を下げ、地上のアメリ
カの町の様子がはっきり見えてきました。そのころの日本の家はほとんど灰色の瓦ぶきで
したから、家々の五色の屋根がとても美しく印象的でした。庭の芝生も隅々まできっちり
と緑色に形どられ、裏庭には、九月の日差しのなかに水色のプールが輝いていました。
 「アメリカは豊かだなあ」というのがそのときの感想です。


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