広島市長 秋葉忠利 顔をもったコンピュータ 序


 コンピュー夕はヽこれまで万人の予測をはるかに凌ぐ速度で進歩し続けてきた。コンピュー
タが現代社会のあらゆる面に入り込み、人聞の生活全般に大きな影響を与えつつあることも、
いまさらくり返すまでもない。
 しかもこの傾向は、今後も続くだろうと信じられている。コンピュータがこれまで以上の速
さで進歩を続け、社会や人間に対する影響もより本質的かつより広範なものになるだろうとい
う予想は、ある種の社会通念になったとさえ言ってよい。コンピュータ革命、エレクトロニク
ス革命、あるいは情報革命といった言葉は、現在から近い将釆へのこうした急激な変化を概念
化しようとする試みにほかならない。
 だか視点を変えて、このような”進歩”なり”革命”なりがいったい、好ましいものなのか
どうかを考えてみると、私たち大方の反応には微妙な色あいがつくように思われる。将来の”
コンビュータ化された社会”には何の欠陥もなく、理想郷そのものが実現すると主張する人はほと
んどいないにしろ、犬多数の人間は、(少なくとも表面的には)コンピュータの進歩を肯定的に
受けとめていると言ってよいだろう.それと同時に、コンピュータ化か進むにつれて現存する
諸悪も増幅され、収拾のつかない事態が起こるのではないかという不安を表明する人もまた多
い。一見矛盾するようだが、現実にはこの相反する意見をあわせ持っている人が多いようだ。私
たちの多くは、コンピューターがが輝かしい未来を約束すると間けば「それは素晴らしい」と素直
に喜び、「いや、とんてもないことが起こるのだ」と言われると「それは困る」と、これまた
素直に憂慮する。そして本音に近い所では、期待と不安が個人的なレペルで交錯し「コンピュー
タを知らないと昇進に影響するのだろうか」くらいのところが正直な惑想だと言ってよいので
はあるまいか(ただし、こういう感じ方は中年世代だけのものであって、若い人たちの間では
コンピュータが生活の一部になっていても不思議はない)。
 コンピュータに対して多くの人がこうしたあいまいな気持ちを持っている背後には当然、コ
ンピュータの”難しさ””複雑さ”という要素がある。まず、チューリング機械とかアルゴリ
ズムとか『コンピ。−タそのものの理論が難しく見える。コンピュータを作り出す技術も複雑
で。ハイテクなどと呼ばれている。でき上がったコンピュータを使うにも、何やら変な言葉を
覚えなくてはならぬ。一言ていえば、同し機械だとはいってもカメラや自転車とはだいふ違
っている。
もっとも、難しいとか分からないからといった理由でコンピュータを敬遠する時代は、それ
ほど長く続かないかもしれない。高性能・低価格のコンピュータかそれこそ秒刻みで改良され、
使い勝手の良い機械がどんどん登場しているからだ。これが、コンピューターメーカーの熾烈
な技術競争の産物であることは言うまでもない。
 しかし、仮に使いやすいしかも強力なコンピュータが遍く普及したとしても、私たちの感じ
ている漠然とした不安は、根強く残りそうだ。人間ならびに杜会に対してコンピュータの及ば
ず長期的な影響が余りよく分かっていないからである。
 コンピュータ関連技術が”幸福な”技術で、人間や人間社会に悪い影響を与えることはまず
あるまいと言う人もいる。その反面、例えぱ専門家システムと呼ぱれるシステムを使う技術者
の聞に、思考停止の現象が見られることも指摘されている。単に悲観的な見方を強調するので
歯なく、どんな影響が考えられ実際それがどの程度測れるものなのか、客観的な研究か待たれ
るゆえんである(タフツ大学では、こうした研究も含めて、コンピュータと人間を大局的な見
地から見直すべく新たな研究所の設立準備を進めている)。
 不安の消えないもう一つの理由は、現代の技術に顔がないからである。エジソンが電灯を発
明したことはよく知られていろが、コンピュータの発明者はいったい誰なのか。自動車なら、
車体にエンジンを載せそれに車を付けれぱ一台でき上がりという製造過程を簡単に思い浮かべ
ることができるが、コンピュータだとそうはいかない。レコードで鑑貧するのは、例えばハ代
亜紀という紛う方なきなき人間の(しかも美しい)歌手たが、コンピュータの向こうにいるソフト
ウェア製作者の姿は浮かんでこない。
 確かに注意深く目をこらして見ると、コンピュータの理論にも開発にもまた実際の運用に
血も涙も笑いもある、だが、表面に現れた技術の進歩に目を奪われて、なかなかそこまで
見えてこない。
 コンピュータや先端技術にも頻があることが分かれば--------ということは、技術の進歩が終局
的に人間に従属しているものだという自覚を持つことだろうが----ただ恐れ、不安を感ずる
状態から一歩抜け出して、技術の”進歩”に注文をつけることも可能になる。現代の複雑・高
度な技術に対する入間側の”コントロール”を回復するための第一歩は、案外こんなところに
あるのかもしれない。こう見てくると、例えば内橋克人氏の『匠の時代』が絶賛を博したのも、
現代の技術に”顔”を与えたことと無関係ではないように思われる。
 さて本書は世界のコンピュータ科学者として、月刊誌「コンピュートピア」に1
980年11月号から1982年11月号までの聞に十数回掲載されたインタビューにうち九
冊を選び1冊にまとめたものである。締めくくりとして、コンピュートピア別冊号『コンピュ
ータはどこまでやさしくなるか』に収録された”科学に強い総合芸術家”安野光雅氏との対談
を、特に安野氏の御厚意によって再録した。なお各インタビューの後には新たに(インタビュ
ーを終えて)を付け加えた。。1984年という時点でもう一度、各科学者の横顔を見直したも
のだが、日進月歩のコンピュータ科学界にあっても、人間的真実はある狸味で不変だというヒ
ントにでもなればさいわいである。
 世界的なコンピュータ科学者がどんなことを考えているのか、彼らが科学者として成功した
鍵は両親の教育とか人種にどんな関係があるのか、コンピュータと未来の社会はどのように変
わって行くのか、こうした疑問を中心にコンピュータ科学者の横顔、端的に言ってしまえばコ
ンピュータの横顔を紹介するのが本書の目的である。コンピュータ・アレルギーを持つ方々に
もこうしたコンピュータの横顔を知っていただくため、専門的な記述は極力控えたつもりであ
る。技術的な部分を飛ばしてお読みいただいても、登場する科学者一人一人が社会について、
教育について、また入間についてどんなことを考えているか一応はお分かりいたたけるはずで
ある。---あるいは、コンピュータ・エージ社刊の『百万人のコンピュータ事典』あたりを操
って術語を理解すことからコンピュータについての勉強を始めることも無意味ではないかも
しれない。
 コンピュータ科学者たちの”横顔”を理解することで、コンピュータと社会、コンピュータ
と人間といった問題は、科学者や技術者またその他の”専門家”″にだけ任せておけばよい問題
てはなく、私たち一人一人が関わるべき開題なのだということを感じ収っていただければ望外
の喜びである.
 その意昧で本書は、生物学者、遺伝学者、環境学者等の横顔を紹介した『時の三眉』(ヘイズ
著、秋葉・三浦・宮崎共訳、蒼樹書房刊)の姉昧書だということができよう。
 また、コンピュータ科学全般の現状と未来の方向について手っ取り早く知りたい方には、コ
ンピュータ・エージ社刊の.三冊本『コンビュータ・エージ』(原著はMIT出版局刊)をおすす
めする.また、欧米で現在のコンピュータ技術を根本から問い直すきっかけとなったジョセフ・
ワイゼンバウム博士の『コンピュータ・パワー』(サイマル出版会刊)もあわせて読まれると、
バランスの取れた理解の一助になるはずである.
 最後に、インタビューに快く応じて下さったコンピュータ科学者、シリーズ連載中からずっ
とお世話になったコンピュータ・エージ社河端照孝社長ならびに「コンピュートピア」誌の久保
悌二郎編集長に心から御礼を申し上げたい。

1984年9月
マサチューセッツ州アーりントンにて
          秋葉忠利

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