秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター 第8章

いまから25年前、当時一流のコンピューター科学者10人に秋葉忠利がインタビューしてコンピュータの未来と人間の将来について書き上げたものです。今日は第8章、マービン・デニコフへのインタビュー、「多忙な演出家」の続きです。

        コンピュータ科学の演出家

米国海軍研究所情報科学部長 マービン・デニコフ Marvin Denicoff


               多忙な演出家                
 アメリカの首都ワシントン特別区はボストンから飛行機で二時間弱、人ロ約70万で日本な
ら中程度の都市である。海軍研究所はすぐ隣りのバージニア州アーリントン市にあるが、「オフ
ィスの中ではゆっくり話もできないから」ということで、近くにあるデニコフ家を訪問した。
ワシントンの中心から車で30分程の住宅地、中流の上といった家が立ち並ぶ一画だが、道順
はなかなか複雑であった。そのせいかデニコフ氏自身ホンダのシビックを駆って迎えに来てく
れた。
 海軍ということにこだわり過ぎたのかもしれないが、デニコフ氏はA・ヘイグ国務長官に似
ているというのが筆者の第一印象であった。もう少し細かく観察すると、ドン・リクルズとい
喜劇俳優にも少し似ている。だがこの二人に比べると話し方はずっと穏やかで、二言三言喋
っただけでこちらが思わず安心感を持ってしまう。ヘイグ国務長官にこの魅力が備われば、大
統領も射程に入るのではあるまいか。
 さて本論に入る前に、デニコフ氏に略歴をたどってもらった。
1924年フィラデルフィアで生まれ、一八歳の時から三年間軍隊生活・・・といっても
IBMに送られてプログラミングと配線の仕事をした。戦争が終わってからフィラデルフィア
あるテンプル大学、それにメキシコ大学で文学と言語学の勉強をした。理学士になったし大学
院での研究も少しはしたわけだが、1950年に海軍に勤められたのは学歴がものをいったの
ではなく、IBMで配線をしていた経験が買われたらしい。海軍調達局本部という部署だった
が、少なくとも海軍では初めてのコンピュータ導人の仕事をした。『コンピュータ・エージ』に
も書いたように、当時IBMはコンピュータなど実用化できるはずはないという一方、ユニバ
ックより高性能のコンピュータが明日にもできるといって、文字通り二枚舌を使っていた。
1954年にはワシントンに転勤したが、所属は海軍でも、ジョージ・ワシントン大学の研究グ
ループの1人として、オペレーション・リサーチや計算という面での研究が主な仕事だった。
1960年にONRに移り、それ以来同じような仕事を続けている」

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秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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