秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター 第9章

いまから25年前、当時一流のコンピューター科学者10人に秋葉忠利がインタビューしてコンピュータの未来と人間の将来について書き上げたものです。今日は第9章、ジョゼフ・ワイゼンバウムへのインタビューです。


     愛を説くコンピュータ・サイエンチスト
     <マサチューセッツエ科大学(MIT)教授     

 ジョゼフ・ワイゼンバウム  jaseph Weizenbaum


   ヒットラーからイライザまで
 質問の順序までは決めずにインタビューを始めたのだが、外国から帰ったばかりの人には、
外国で何をしていたのかという質問から始めるのが自然だろう。
 「まず、ベルリン工科大学(TUB)の客員教授としてベルリンで半年、次にハンブルグ大学
でやはり客員教授として半年過ごした。二年目はボン近郊のGMD(情報処理研究所)の客員
研究員として一年間を過ごした。セミナーを主宰したり、あちこちで講演を頼まれたりしてい
るうちに二年間過ぎてしまった。その二年間取り組んできたのは、社会の中でのコンピュータ
という問題、つまり、コンピュータがわれわれの存在あるいは考え方に、どんな影響を与える
かという問題だ。逆に、現在の社会構造がハイ・テクノロジーの発展にどんな影響を与えるか
ということにも関心を抱いている」
 ワイゼンバウム教授が、コンピュータと社会について積極的に発言し始めたのは10年ほど
前である。なぜこの問題に関心を持つようになったのかは、『コンピュータ・パワー』にも述ベ
られているが、もっと遡って幼児体験などにも関係があるらしい。その源を探ることで、コン
ピュータと社会の位置する文脈といったものもより明らかになるのではあるまいか。次に、経
歴をたどりながらその辺りを語っていただいた。
「まず生まれたのは1923年、場所はベルリンだ。33年にはヒットラーが権力を握り、私
たち一家は36年にドイツを離れてアメリカに逃れた。デトロイトに落着くことになり、父は
そこで引続き毛皮商を営むことになった。私もデトロイトで育ち教育を受けたわけだが、第二
次大戦が始まり42年から46年までは陸軍の気象班に属していた。大学はミシガン州のウエ
イン大学で48年に学士、52年に博士号をもらった。大学院時代、初めは数学が専門だった
のだが、たまたまジャコブセンという先生がデジタル型のコンピュータを作ろうとしていた。
当時私はアナログ型のデファレンシャル・アナライザーと呼ばれる機械に興昧を持っていたの
だが、デジタル機械とは一体どんなものかという好奇心から、仲間に入れてもらった。最終的
には、他の目的のために作られていたパルス・コントロール用の機械を使ってデジタル型のコ
ンピュータを造ることに成功した。とにかく、論理設計から組立、基本的プログラムを造るこ
とまで全部自分たちでしなくてはならなかったので、とてもよい勉強になった。卒業してすぐ、
カリフォルニアにあったコンピュータ・コントロール社という小さな会社に入った。この会社
ではRAYDACという当時は高速だったコンピュータを扱っていたが、私は微分方程式の解
法を担当した。
 1955年から一年間は、ペンディックス・アビエーション社のコンサルタントになった。
当時としては、小型のG15という機械のプログラミング・システムを担当して、1956年か
らはゼネラル・エレクトリック社(GE)で、アメリカ銀行のロ座振込システムを開発、同時
スタンフォード大学のコンピュータ科学科の無給研究員でもあった。
 1963年にはMITから客員教授として招待され、そのままMITに居残ることになって
しまった。MITではSLIPというリスト処理言語の開発や、人間・機械間のコミュニケー
ションの問題・・・その中には自然言語処理も含まれるが・・・に従事してきた。
人間と機械の間の会話プログラムであるイライザ(ELIZA)もその当時の仕事の一部だ」
 ワイゼンバウム教授と会うのは二年ぶりだったが、以前と比べて少し元気のないのが気にな
った。特に老け込んだ感しもなく顔の艶もよいのだから、時差に慣れていないせいなのかもし
れない。いずれにしろ、一語一語考えながら静かに話す調子は二年前と変わっていない。これ
までにインタビューした、コンピュータ科学者たちとはだいぶ趣が違うのである。



広島ブログ
秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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