秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター 第9章

いまから25年前、当時一流のコンピューター科学者10人に秋葉忠利がインタビューしてコンピュータの未来と人間の将来について書き上げたものです。今日は第9章、ジョゼフ・ワイゼンバウムへのインタビューです。


     愛を説くコンピュータ・サイエンチスト
     <マサチューセッツエ科大学(MIT)教授     

 ジョゼフ・ワイゼンバウム  jaseph Weizenbaum




   ワイゼンバウム批判に答えて
   
 だが、ワイゼンバウム教授を批判する人びとの中には、ワイゼンバウム氏が被害妄想狂で偏
執狂的性格の持ち主だから『コンピュータ・パワー』を書いたのだという人までいる。批判を
するばかりで、何の解決策をも示していないではないかとの不満、あるいは〃科学的〃である
べき議論に感情が入り込んでいるのは好ましくないとか、コンピュータのよい面も取り上げる
べきだなどとの批判もある。これまで本書で取りあげたコンピュータ科学者たちの批判も大同
小異だが、こうしたワイゼンバウム批判に対して、本人はどのように反論するのか興味のある
ところである。
 そのためにはまず、ワイゼンバウム教授に、主な批判の要約を伝えなくてはならない。それ
に時間が取られて、反論の時間が少なくなってしまったが、そのうちのいくつかをここに掲げ
よう。
「まず、今、要約してもらった意見を聞いていて、私はそれを〃病的な〃反応だと言うことも
できるのだが、少なくとも私たちは社会的に重要な問題について理性・知性を基礎にして議論
をしている。だから、同僚でありこうした議論の相手に対して、こういったラベルを貼るべき
ではないと思う。それにしても、被害妄想あるいは偏執狂だと言う人たちは、本当に被害妄想
とか偏執狂とはどういうものか知っているのだろうか。
 次に問題提起をするばかりで解決策を示さないという点についてだが、そういうことを言う
人はそもそもコンピュータを取り巻く情勢がそれほど重要な問題だとは思っていない人たちだ
ろう。大きな問題、大切な問題だと思えば、その解決策を探そうと自分でも努力するだろうか
らだ。もっとも、コンピュータが原因で起こる問題については、やはり専門家であるコンピュ
ータ科学者がその問題に取り組んだ方がよいだろうとは思う。もう一つ、問題を提起する人間
が、同時にその解決策を探すのに最適な人間であるという保証も法則もない。
 この議論を展開するにあたって、個人的な感情を交えているという批判だが、私はそれを否
定的には取らない。例えば、『コンピュータ・パワー』の中で、『私』という主語を使って自分
の考えを述べたし、家族のことや学生についても言及した。私は、知的・科学的あるいは技術
的な議論が、個人的感情とまったく関わりのないものだとは考えていない。ほかの人びとも同
じように個人的感情を交えて、こうした議論をしてほしいと思っているくらいだ。
 コンピュータとか、計算ということについてワイゼンバウムは、否定的なことしか言わない
という点だが、これについて二つのことを指摘したい。第一に、何事においても時と場所が大
きな意昧を持つということ。否定的な面に言及したからといって、『一方、肯定的な点は…』
と続ける義務があるとは思わない。特に、否定的な面に注意を向けてほしいと思っている時に
こんなことをするのはかえって逆効果だ。第二に、コンピュータの与える肯定的な面について
は、私もよく知っている。マクシマとかデンドラルのようなシステムについて、あるいは心理
学でコンピュータをモデルにしたり、コンピュータにたとえることで、新しい展望が開けるこ
とは『コンピュータ・パワー』中にも述べたとおりだ。だが、私たちは、″コンピュータは素晴
らしい″ということを耳にたこができるほど聞いている。それをまたくり返すことで、自分の
責任が果たせるとは思えない」
 MITのダーツーゾス教授(第1章)は人間と機械との差を峻別する。ADL社の副社長ウ
イジントン氏はさらに、コンピュータの人間に与える影響が本当に現われるのは、人口のほん
の一部分がコンピュータに接触している現在ではなく、大多数の人びとが子供の時からコンピ
ュータを使うようになった時点、あるいはその一世代後だろうと言う。


広島ブログ
秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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