秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター  対談

″人間がより人間的″であるためにコンピュータとは何だろう
コンピュータ・科学・芸術・数学・文化・社会について語り合った、画家と数学者の対話
画家安野光雅 タフツ大学准教授秋葉忠利


 ここ数十年の間に起きたコンピュータの進歩が、私たちの想像をはるかに越えたものであっ
たということは言うまでもない。その進歩は今後も続くだろう、というのが大方の子想である。
となると、将来のコンピュータはどんなものになっていくのか、あるいはどんな具合に便われ
るようになるのかを考えることは無駄だという議論もできる。「大方の予想」が正しければ、
「私たちの想像を越え」る進歩が将来もひき続き起こるだろうからである。
 しかし、人間には未来を予測したいという根源的欲求があるようだ。いくら当たらなくても
未未学者がもてはやされ、易から西洋占星術まで相変わらず廃れないのがよい証拠である。そ
こには、自分の運命を自分でコントロールしたいという気持ちがある。
 そんな気持ちにおかまいなく、われわれを取り巻く社会では、ますます管理化が進んでいる。
しかもその現代社会とコンピュータは切り離せない関係にある。
 われわれの想像を越えた高度コンピュータ、そして情報処理、通信システムが現実のものに
なる時、管理化もますます進み、その中で人間は硬直した社会に合わせて変わらざるを得ない
のだろうか。あるいは高度技術が社会とか体制の方を変えていき、多様化する価値観が共存で
きる真に人間的な世の中になるのだろうか・・・。
 『第二の波』の著者アルビン・トフラー氏流の疑問だが、それに対する答はさまざまであろう。
 本書で私のインタビューしたコンピユ−タの専門家だけ考えても、MITのダーツーゾス教
授は法律措置によって社会全体の利益が最大になるようにすべきだと強調するだろう。あるい
は、同じくMITのパパート教授なら、コンピュータにより社会は変わるだろうが、人間がコ
トロールできるのはたかだかその二次的変化ぐらいだと言うはずである。ADL杜のウイジ
ントン副社長なら、自由経済のシステムと市場のメカニズムがうまく働いて、人間にとって最
適な選択が行われると言うだろう。しかも、これまでの歴史を見ると、人間が自らの習慣を変
えてまで不使な商品を選んだことはないとも言う。
 もっとも、アメリカのコンピュー夕専門家の多くは、こうした問題に関心がない。考えるこ
ともばからしいし、MTITのワイゼンバウム教授の人工知能枇判なども「あれは偏執狂の言う
ことだ」と軽く片付ける人さえいる。
 だが、日本には少々違った雰囲気があるようだ。文化的な違いなのかもしれないが、“清濁あ
わせ呑む″というのが不適当なら、バランス感覚が優れていると表現してもよい。とにかく、
コンピュータの専門家にも実に人間的な人物か多いように思うのである。平衡感覚がうまく働
いて、人間がより人間的であるために機械が使われる・・・日本を中心にして、理想的な未来社
会を創りあげることもできるのではないか・・・そんなことさえ夢想する。
外国に長く住むと、日本と名の付くものなら何でも良く見えてくる・・・日本の酒、日本の歌、
日本女性等々・・・ということがあるのだが、実は、コンピュータと普通の社会の接点に立って、
日本的平衡感覚を絵に描いたような人物が存在する。ここでお話を伺う安野光雅氏(画家)だ
が、日本的平衡感覚を素晴らしい絵に描く人でもある。本職は画家である。もっとも、数学や
コンピュータの本を書いたり、エッセイや童話、挿絵なども一流という八面六臂の活躍を見る
と、想像力と創造力を表現するために生きているプロフェッショナルという感じさえある。も
ちろん、アメリカには彼に匹敵するような人はいない。かのマルチン・ガードナーにしても、
少々理に勝ちすぎている。アシモフは我が強すぎる。
 だが、今回は我を少し出していただいて、これからのコンピュータとそれを迎える社会につ
いてのお話を伺うという趣向である。僣越ながち、安野光雅ファン・クラブ・ボストン支部
員である小生も掩護射撃に加わらせていただき、あくまで素人の立場に徹してコンピュータあ
るいはコミュニケーションのあるべき姿を対談風に探ってみる。もっとも初めの意図から外れ
た部分もままあったが……。
 まずは、コンピュー夕が社会のすみずみにまで組み込まれ始めている現状で、いったい何が
一番問題かという点から話が始まった。場所は新宿・京王プラザホテル内の一室。


広島ブログ
秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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