秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター  対談

″人間がより人間的″であるためにコンピュータとは何だろう
コンピュータ・科学・芸術・数学・文化・社会について語り合った、画家と数学者の対話
画家安野光雅 タフツ大学准教授秋葉忠利



     科学的な見方とは

 秋葉 例えば、アメリカの研究者はかなりの部分、政府からの研究費に頼っている。
 公のお金をもらっているのだから、何らかの形で社会にそれを戻さなくちゃいけないと思う
のが庶民の考えで、その実情はというと、往々にして方法論そのものが研究の対象になってい
て、その部分が出てこない。社会への還元の仕方は、企業がそういう人たちをコンサルタント
として雇って研究成果をもらい製品として出てくる。それにお金がかかるから、製品として出
たときにまた消費者が二重に払うことになっている。それはおかしい。もうちょっと、うまく
システムができないのかと思うんです。
 別の解釈をすれば、実はソフトウエアとかコンピュータとかは科学科学と言っているけれど
も、実は科学じやないんしやないか、芸術なんじゃないか。例えば、安野さんのように、素晴
らしい画家がいて、自分のノウハウがあって、研究費もらったからそれを社会に還元しようと
するときに、説明してほかの人にわからせようとすることはできない。「私は科学でござい」と
言っておいて、しかも本当には還元しないというのは、何かずるいような気がする。もっとも
社会に還元するといっても、その方法はいろいろあるでしょうからヽ難しいところではありま
すが……。
 安野 芸術という分野のことは、方法論が自分にはあっても、誰にでも適応できるものでは
ないですね。これはぼくの非常に興昧のあることですが、ぼくたちは絵描きですから、初歩的
には遠近法というものを使うわけですね。遠近法というところで、いみじくも科学と重なって
いるように思うんですよ。遠近法というのは、絵に客観性を持たせるための唯一の方法論と言
っていいわけです。
 ルネッサンス期に遠近法というものがみつかった。ために、世界が写真のように描けるよう
になった。よく考えてみると、遠近法的な物の見方というのは、科学的な物の見方なんですね。
ぼくは、長い間そうは思わなかった。
 遠近法の視点というのは、動かない一つのふし穴からのぞいた世界なわけです。遠くは小さ
く、近くのものは大きくなる。写真機も一つのふし穴からのぞくんですね。シャッターを切っ
た瞬間は、少なくとも動かない。心を空しくしてすべてのものを見てとる。好きな所を見てほ
かは見ないというのではない。そういう一つの見方。
 そういう科学的な物の見方であるがゆえに客観性があって、そのふし穴からのぞきさえすれ
ば、誰がのぞいても同じ物が見えることになります。映画でもテレビでもそうですか、カメラ
マンの目というふし穴をわれわれが一斉にのぞかせてもらう。芝居の舞台は違います。横から
見た人と真中で見た人と違うし、選択して見ていますが、映画は同じものを見ている。
 これはね、こわいことでもありますね。他人の物の見方というか、他人の思想に入り込んで
物を見ていることですからね。
 遠近法的な物の見方を科学的な物の見方とすると、そうじゃない中世的な物の見方というの
があります。
 説明するまでもないけれど「心の目でみる世界」というのがありますね。科学者も芸術家も
ふくめて、やはりわれわれは人間なんだなあと、遠近法の物の見方というのは、本当にきびし
いことだし難しいし、しよせんは人聞的な物の見方しかできないのかもしれないとがっかりす
るくらいですが、だからこそ科学的に物を考えるときには、かなり勇気をふりしぽって考えな
きゃいけないと、実はこの頃思うようになって、かなりインチキな考え方も許せるよぅになっ
たけれどもね……。
 それでも、今言ったのは、一枚の絵を描く場合にのみ適用する遠近法なんですよ。日常的に
は、遠くのものは遠くにあってほしい、近くのものは近くにあってほしい。大自然の中で人間
は、そういう形で住んでいたはずです。ところが、いわゆる情報化社会になってくると、遠く
が近くこなってくる。つまり遠近法が混乱しはじめます。
 例えば、ついこの間のようにアメリカから九州の阿蘇山へ観光に来たおばあさんが、お金を
奪られたとニュースがあると、「何てかわいそうだ」と、お詫びを言われるわ、お金を届けるわ、
大さわぎになります。ところが、隣のおばあさんの話だと問題にしない。私をふくめて不思議
だなと思ってるんです。


広島ブログ
秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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