秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター  対談

″人間がより人間的″であるためにコンピュータとは何だろう
コンピュータ・科学・芸術・数学・文化・社会について語り合った、画家と数学者の対話
画家安野光雅 タフツ大学准教授秋葉忠利



      「ヌバ」の世界(1)
  
 秋葉 だいたい大昔は、人間は自分がどういう状態にあるか自然に分かっていた。ところが
だんだん科学、あるいは合理的と称する考え方が入ってくるにつれてそれがくずれてきて、例
えば時を知るのも、もとは、腹がへったら物を食べる、痛いから何か身体に異常がある、ある
いは自分の心が騒ぐから、ちょっとおかしい、と自分で分かった。
 それが変わってきた。最近の科学の研究には変なのがたくさんあって、例えば、母乳が赤ん
坊にたいへんいいとか(笑)。当たり前というか昔はそれしかない。あるいは、子供が病気にな
ったとき一日何時間光をあてて後は暗い所に入れておくと直る。電灯なんかなかった時は自然
の光のサイクルで、それは当たり前のことだった。
 ニワトリが先か卵が先かということかもしれませんが、何があっても、科学が「太鼓判」を
押さないとそれが本当のことじやないという風潮が出てきている。極端に言うと、科学がわれ
われの見る現実を変えてしまって、科学が正しいと言ったことだけ正しいものとして選んで、  `
それ以上のものは捨てる、あるいはテレビに映ったことは事実だけれども、自分の目で見たこ
とは必ずしも現実ではないとする風潮があ隣のおばあさんのことは、テレビに出ないから
現実ではない。
 コンピュータの場合には、もっと恐しいことになるというような考え方もできるわけですね。
 安野 まったくそうですね。テレビに出てくる俳優に道で出会うと、他の人と出会ったより
親近感を持つようにね。どうも情報の方が実物に優先しているきらいがあります。これは、ち
ょっとこわいことですね。萩原朔美(作家)が言ってたことなんですが、東海道を走ってると
富士山が見える。乗客は一斉に富士山を見る。そして「やっぱり写真と同じだ」というので納
得するっていうわけですから、ヨーロッパヘ行っても、エッフェル塔でなきゃいけないし、凱
旋門でなきゃならんのですよ、やっぱり。それ以外のものを見ても「見た」っていうことにな
らないのね。つまり、情報を目でたしかめたことにならない。モナリザのような名画でもそう
ですね。情報の根源を見たということで納得する。これは昔はなかったことですね。
 秋葉 直接経験というものを、人間の方で信用しなくなってきている。
 安野 むしろ空虚だなんて思う。これは萩原朔美の意見ですけど、ぼくたちは、情報として
の知り合いの方が多いんじゃないか。例えば、知るかぎりの人間をあげよと言われたら、女房、
子供、おじいちゃん、おばあちゃん……と数えあげてもそれはタカが知れている。それから先
の見たこともない情報的人間の方が圧倒的に多い。情報的人間のことを共通の知人として話題
にしているというわけで、これも昔はあまりなかったことですね。
 情報を作って、自分で作った情報にふりまわされているようなことがありはしないかと思い
ますね。


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秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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