秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター  対談

″人間がより人間的″であるためにコンピュータとは何だろう
コンピュータ・科学・芸術・数学・文化・社会について語り合った、画家と数学者の対話
画家安野光雅 タフツ大学准教授秋葉忠利


    擬人化、コンピュータ化(1)

 秋葉 ところで、世界でも日本でも、安野さんがお住いの小金井市でも、レペルはどこでも
いい、一番大事な問題を三つあげろと言われたらどうですか?
 安野 今、わりに痛切に考えていることがあるんです。それは大事なことかどうか分かりま
せんよ。ぼくたち人間は、ふだんは誰も死にやしないと思っている。今日帰りに自動車事故に
遭おうとは思わないし、地震があっても俺だけは生きていると思う。
 非常に楽天的に思っているから毎日生きていられるんですけど、それを裏がえしてみると、
自分は死にたくないと思っている。これは人間最大の恐怖ですが、それがどのくらい利用され
でいるか知れないと思い当たるわけ。みんな死ぬというのがこわいために、宗教家も医者もお
よそありとあらゆるものに存在理由がある。そうすると、死んだっていいんだよと思ったとた
んに全部が崩壊する。つまり、死生観のテーマを考えています。
 それともう一つは、人間の知識的な、文明の部分が伸びきっちゃっている。教えるにも教え
られないくらい伸びきって、あまりにも差ができているために、支配者と被支配者との力関係
に似た構造が生まれてくる。現実の植民地なんていうのがこの世になくても、無形の形ではや
はり植民地があるんじやないかと思ったりするんです。これは一つの例ですが、文明のための
歪みというか、文明のためにもたらされる中世時代というものを感じたりします。
 秋葉 コンピュータに対して、人間の方から感じるものすごい執着がありますね。“イライザ”
のところでも出てきますが、コンピュータと話をしていると、あたかも人間と話をしているよ
うな気持ちになっちゃったとか。それは、例えば車、あるいはオートバイなどに対しても人間
が持つ感情と同じなんでしょうか。
 そういうことになると、コンピュータとは本質的に違う点があるように思えるのですか、コ
ンピュータというのは、やはり人間の脳を真似しているんだから、身体の延長じゃなくて頭の
延長だというところで差が出てくるんでしょうか。
 安野 それはそうでしょうね。あるロシア人ですが、等身大の人形をもった年寄かいるそう
です。話しかけると返事をすると思ってるんです。ぬいぐるみなんだから、犬や猫に話しかけ
るのとはエライ違いなのに、茶碗やコップに話しかけるよりはまだましだというところがあり
ますね。擬人化の世界というようなものが……。
 ロボットを考えるとき、昔は擬人化の線で考えてましたよね。電話機がそうであったように、
なるべく人間の形にした方がよかったということがある。コンピュータそのものも、ひょっと
すると、人間の形にしたりなんかすると、もっと話しかけやすくなるかもしれない。コンピュ
ータは、電話で話すことができますでしょう。「シツモンガマチガッテイマス。オコタエデキマ
セン」なんてコンピュータが言うと「ああしまった、ばれたか」なんて思っちゃったりして(笑)。
 コンピュータを作る時にも、擬人化的な発想があったというのは聞いたことがありますが、
この擬人化というのが、けっこう大きいテーマじゃないかと思っているのはね、ぼくたちは「キ
リンの首は長い」って言いますでしょ。あれも擬人化の思想ですね。われわれ人間に比べて首
が長い。ヒョウは速い。たしかに速い。あれは、人間に比べて速い。いわば、全部擬人化しち
ゃうんだもんね。いそうもないものを……。
 秋葉 本質的なことだと思います。というのは、人工知能を研究している人の中には逆に考
える人がいる。人間の脳をコンピュータ化して考える、そこが本質的な点だと。それはそれで、
一つの方法論としてはおもしろいんですが、本末転倒しているところがあるように思える。コ
ンピュータを擬人化して考えるんだったらまだいいんですが、人間を、コンピュータ化して考
える、それですべてだと決めつける傾向がある。そこの、どっちをどっちに考えるかかというと
ころが、ものすごく大事なことだと思う。


広島ブログ
秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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