秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター  対談

″人間がより人間的″であるためにコンピュータとは何だろう
コンピュータ・科学・芸術・数学・文化・社会について語り合った、画家と数学者の対話
画家安野光雅 タフツ大学准教授秋葉忠利


        擬人化、コンピュータ化(2)


安野 ちょうど、目をよくカメラに置き換えて説明するでしょう。あんなふうに軽くやられ
ちゃ困るんだよ。でもね、一時しのぎの説明にはなる。それというのも、カメラを説明するの
に目みたいなものだよというのは、いいんだけれども、目はカメラごときではなぃんでね、実
際は……。
秋葉 ワイゼンバウム教授が間接的に言っていいるのは、情報を伝えるのに際して、コンピュータはたしかに強力かもしれないけれども、要するに人間の直接経験というものの方が、非常
に情報量が大きいんだと。そういうことを、ほのめかしているわけです。
 だから、人間対人聞の情報交換をしのぐことは、コンピュータにはできないだろう。例えば、
一つの例としては数学がありますね。数学的な概念とか定理の証明というのは、論理的になっ
ているわけですから、しかも、さっき言ったように、言葉で表わすことが数学だというわけだ
から、コンピュータに全部入れることができるわけです。あるいは言葉にすることなんだから、
電話でしゃべってもいいわけですね。
 ところが、そうぃうことができる時代になっているにもかかわらず、なんで数学の学会があ
るのか、あるいはセミナーがあるのか、というところは、実は人間と人間との情報交換の方が
効率がはるかに高いということです。コンピュータを間にいれるというのは、実は邪道なんじ
ゃないか。あまり生産性が上がるというものではないんじゃないか。
安野 中易一郎(哲学者)が言うには、人間が情報交換できるのは、声が届く範囲だという。
ということは、声をはり上げてもせいぜい30人か40人なんですよ。大学の教室の中なんで
す。けれどもマイクを使って届く範囲を広げたり、テレビを使ってさらに範囲を広げたりした
ら、“ 情報 ”にはなりこそすれ、コミュニケーションじゃないわけです。
秋葉 人間と人間とのやりとりを、情報のやりとりというふうに定義すると、人数が多くな
ると今度は情報のコピーのやりとりになる。
安野 そうそう。本当の情報のやりとりにはならなくなる。だから、本当に情報交換が成り
立つんなら、大学は一つであと全部テレビでいいじゃないかということになるんですが、そう
はいかないところがあるわけなんですね。
 だから、もっと極限的に言うと、私は手紙だと思っているわけです。手紙というのは、大量
生産じゃないでしょ。印刷じゃない。それから、私信ですから公にされないし、絶対読むわけ
だよね。電話もまあそうですが、情報に関して、最もホットに伝わるのは手紙じゃないかなと
思うんですよ。
秋葉 コンピュータの言葉でいうと、分散化というのは、人間の本性にやっぱりあっている
んじゃないかなという気がしますね。全部の人が同じにやろうとするんじゃなくて、一対一の
やりとりがあちこちにあって、というのが自然じやないかという考え方です。価値というもの、
例えば経済なら経済に対する考え方が、人間がいるのと同じぐらい世の中にはある。要するに、
価値観が多様であるのが本来の姿だ。となると、トフラーのいう第三の波、ものすごく単純化
して言うと、価値の多様化、それに体制とか社会が合わせるのか、それとも人間の方がおさえ
合わせていくのか、どっちに合わせるか。すると、やはり人間の方に合わせるべきだと思いま
すが。


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秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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