秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター  対談

″人間がより人間的″であるためにコンピュータとは何だろう
コンピュータ・科学・芸術・数学・文化・社会について語り合った、画家と数学者の対話
画家安野光雅 タフツ大学准教授秋葉忠利


   どんな人間に近づくか(1)

 秋葉 ロボットについてはどうですか?
 安野 ロボットの記憶力は抜群で力も百人力ということはできても、創造力だけはできない
から、人工知能というわけにはいかない。労慟力のためのロボッ卜はいいけど創造し想像する、
考えるロボットを作ることはできない相談だからやめた方がいいと言うんだけれど、ロボット
学者、コンピュータ学者は、やめたくないらしいですね。
ところで、一つだけ、コンピュータの専門家たちに言ってもらいたいことがあるのね。それ
は、ぼくが言ったんじゃ値うちがないから言ってもらいたいんだけれども、コンピュータって
いうのは、鉄とか、ガラスとか、何か知りませんが無機的な材料でできている。ぬいぐるみの
犬が、犬にそっくりにできていても、結局、それは、皮や布やワラでできているのと同じで、
コンピュータっていうのはつまるところ無機物なんだって宣言してもらいたいんです。
 速く計算ができるとか、みどりの窓口の切符がとれるというのは、格別偉いこととは思わな
い。泣いたりわめいたりするっていうんならね、これは驚くけれども……。そういう意昧で、
神様ほどのことはできないっていうことを言ってもらいたいんです。
 秋葉 それと関連して、教育の問題があるように思います。例えば、コンピュータを使って
教育をしている人というのは、たかが金物だとか、たかが人間が考えたものだと言わなくて、
コンピュータを使うことで、例えば創造性を養成することになるんだ、というようなことを考
える。
 パパートという人がいるんですが、彼は、もともとはケンブリッジで数学を勉強して、チュ
ーリッヒでピアジエに5年間ついて心理学を勉強した。それからMITで、ミンスキーという
人工知能の長老的な人の下で学び、その後、コンピュータを使った教育ということをやってい
るわけです。特別な言葉を使って、例えば画面に幾何学的な模様が現われるようなことをして、
その過程が教育だっていうんですね。おもしろいことはおもしろい。
 ところか実際やっていることを見ていると、ちょっとニュアンスが違うという気もするわけ
です。というのは、コンピュー夕に人間の方が合わせる感じがある。
 例えば、円を作る場合一度曲がって一歩すすむというのを360回やると、円みたいなのが
できる。それをもっと細かくしていくと、円が最終的にできる。教育的な意昧がどこにあるの
かというと、そこをだんだん考えて、円のまわりをたどるにはどうするかということを考える。
例えば、微分方程式のような考えが養われる。そういう効用を強調するんです。
 その辺はぼくも分かるんですが、もうすこし極端になって、キーボードを使って、子供たち
が書くという経験を通り越して、押す、という簡単なことで、画面の百科事典から「シマ馬を
知ることができる。そういう時代になると、人間は話し百葉よりは書き言葉の方を先にマス
ターするということまで言う。よく考えてみると、さっきの直接経験のところが、スポッと抜
けちゃっているような気がする。
 安野 ボタン押す以外には、何にもないという気がする。
 秋葉 うちの坊主は五歳ですが、車の窓を開けるには、ボタンを押せばいいと考えている。
ハンドルを回すというのは抜けている。そこいらがコンピュータと結びつくと、ちょっとこわ
い。実体のない情報をいくら集めても、例えば「日本に石油がある」と思い込んでいる人を
100万人集めても油は出ないのと同じように……(笑)。


広島ブログ
秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
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