秋葉忠利著書 “顔”を持ったコンピューター  対談

″人間がより人間的″であるためにコンピュータとは何だろう
コンピュータ・科学・芸術・数学・文化・社会について語り合った、画家と数学者の対話
画家安野光雅 タフツ大学准教授秋葉忠利



      どんな人間に近づくか(2)

 安野 私はボタンに頼るタイプじゃないと思ってたんですが、この頃自信がなくなった。悲
観的ですね。ボタンに対する反省を始めねばいけませんね。一つの比喩になるかもしれません
が、ついこの間コンゴの首都から突然にぼくに講演してくれないかという電話があって、それ
は断ったんだけど、電話のむこうで今、干ばつですごいと言っている。そして作物は交配種、
品種改良したのから順に倒れていくという。最後に、原種が残っているって言うんですよ。
 秋葉 ということは、非常に楽観的に思っていい?
 安野 いややっぱり悲観的ですね。私たちは品種改良した結果ですから、いざとなると何人
かは倒れなければならない。現にニューヨークが停電になると、たくさんの人が倒れてる。
 秋葉 ウイジントンは、もうちょっとたつとコンピュータを使えない人間は疎外されていく
だろうという。だから、両方起こるんでしょうね。いざとなると、疎外されていた方だけ生き
残る。
 安野 現在、そうなりつつあるような気がしますよ。コンピュータに限らなくても、大学ヘ
行ったものと行かないもので。ますますこれから先分かれるんじゃないかなあ。ホワイトカラ
ーの中でもまた分かれる。
 秋葉 そうすると、価値が多様化するっていうのは、大昔と同じようになることなのかもし
れない。昔は自分たちの歩ける範囲ぐらいしか知らなかったわけでしょ。あちこちぜんぜん違
った価値観が世界中にバラまかれて、コンピュータ使っても、それを全部知ることはできない。
 そうなると輪廻というか、めぐりめぐって人間の将未はあんまり心配しなくていい。でも、
本当に心配しなくてもいい社会ができるためには、いくつか必要条件があるでしょう。例えば、
このまま技術進歩が続いて、誰でもポータブルの超高性能コンピュータを持って歩けるように
なったとする。しかも普通の話し言葉で命令できて、ネットワークにもつながっている等々、
何でもかでも可能だとして、それがどのように社会を変えるかと考えると、現在とそれほど変
わらないのではないかという気もします。そういう状態に至るまでの過程で、既得権は当然守
られていくでしょうし、ある意味でのエリートと一般大衆との差もなくならないでしょう。
 例えば、今でも束南アジアやアフリカでは飢えている人が何万、何百万という単位でいる。
あるいは、今年の夏、ケニアのトルカナ族の女性が眼の手術を受けるためにはるばる日本まで
やって来る。世界的なレペルで見ると、こうした不均衡さがまだまだある。中性子爆弾の製造
も決定された。そういう問題をコンピュータはどう解決するのか、あるいは全然関係のないこ
となのか。
 かと思うと、電子技術はイコール軍事技術であると考えている人も多い。もしそれが本当な
ら、軍事技術で人間社会を本当に改善できるのかということにもなります。
 いずれにしろ、悪くいけばとんでもないことになりそうだというのは、わりに直感的に分か
る。ただし、うまくいったところで、それほどのことはないんじゃないかという気もする。や
はり、さっき出たように、情報というものを信用していないところがあるのかもしれません。
 こんなことを言う一つの根拠は、専門馬鹿というか、あまリ融通のきかない数学者を多く見
ているからかもしれません。仮に、人聞の言葉が分かり、こちらのいうとおりのことをしてく
れるコンピュータができたとします・・・・・何年先になるか分かりませんが。でも、それよりは人
間の方が能力があるでしょう。
 ところが、事務能力のない数学者はゴマンといる。日本語なり英語なり共通の言葉でしゃベ
っていても、全然意志が通じなくてこちらが疲れる。それならいっそのこと自分でやった方が
早いということになる。だから、人間に近いコンピュータというのができても、どの人間に近
づくのかが問題だし、それがすべてソフトウエアの差だけとも言えないような面があると思う
ので、つまり、ハードウエアで差を縮められるような部分もあるだろう。


広島ブログ
秋葉市長が25年も前にコンピュータ時代を予測して、当時の最先端科学者をインタビューした本です
より多くの市民に読んでいただくためにクリックをお願いします。