秋葉忠利著書  私の時間割

             アメリカ人とのつきあい方

           2章 エルムウッド・パーク・ハイ・スクール

                     私の時間割 

 ドクター・グロースンと相談の結果、私がとることにした課目は、私が1年間しかアメリカに
いないせいもあって変則的でした。
 1学期目は、最初の時間が社会科、この時間はアメリカの政治の仕組や時事問題を勉強しまし
た。2時間目がアメリカ史。3時間目がタイピング、つまりタイプライターの打ち方を習いまし
た。二学期目にはこの時間にスピーチをとり、人の前で話すこととディベート(討論)を習いま
した。4時間目が英語です。昼食のあと、5時間目はスタディ・ホール。
その時間には1つの教室に生徒だけが20人ほど集って、宿題をしたり本を読んだりして1時間
を過しました。その間、私語はまったく許されません。2学期目にはこの時間に音楽をとりまし
た。そのあと6時間目に体育。これを月曜から金曜まで毎日同じようにくり返す点が日本とはち
がっていました。
 私が選んだ課目のなかでいちばん印象に残っているのは、やはり最初に出席した社会科のクラ
スです。先生は、ミスター・シーバーソン。頭は少し薄くなっていましたが、青い目の知的で親
切な先生でした。赤ら顔で、生徒の1人1人を大人として扱ってくれる態度がだれからも好かれ
ていました。
 「授業中になにかわからないことがあったら、いちいち手を挙げないでも隣にいる友だちに小
声で聞けるように」と、私の席を優等生のフランクの隣にしてくれました。授業中に意味のわか
らない単語が出てくるたびに、私は英和辞典をフランクに渡して、その単語を探してもらいまし
た。少したつうちに、発音からスペリングが想像できるようになったので、フランクをわずらわ
す回数も減りました。フランクは運動も万能で、レスリングのチームでもいっしょになり、仲よ
くなりました。現在は、ラス・ベガスにある、ジュニア・ハイ・スクールの校長先生をしていま
す。
 私のとった課目のなかで日本にないものは、タイピングとスピーチでした。アメリカのハイス
クールにはこのように、日本ではふつう学べないような課目があるのですが、その理由の1つは、
アメリカが大きい国だからです。
 アメリカにはボケーショナル・ハイスクールと呼ばれる高校もあります。日本の職業高等学校
相当しますが、高校卒業後すぐ仕事につけるように、たとえば、自動車を修理する枝術、旋盤な
どの機械を操作する技術、木とか金属を使って加エをする技術などを教えてくれます。
 ところが、小さな町(とくに人口の密でない地城)になると、ボケーショナル・ハイスクールを
独立してつくることが経済的に難しくなります。その結果、ふつうのハイスクールのなかの選択
課目として職業教育をすることになります。現実的な理由とは別の理由を拳げる人もいます。
かりに別のハイスクールをつくることができても、すべてのアメリカ市民を平等に、同じ学校で
教育するのがアメリカの理想なのだと、考える人々もいるのです。
 いずれにしろ、タイピンダはアメリカのどこのハイスクールでも学べる課目です。職業としての
タイピストの需要が多いからですし、またタイピストにならなくてもタイプライターが打てないと
ずいぶん不便だからです。きちんとした手紙を書いたり、公式の書類を出すとき、あるいは、大学
の入学願書さえもタイプ書きのものを提出するように要求されることかあるからです。
タイプライターで打たなくても、崩さない字できちんと書けばそれですむことが多いのですが、
大学に入ってレポートを提出する段になると、量からいって、タイプライターでないと困ります。
やはり高校のうちにタイピングを習って、かなり速く打てるようになっていたほうが便利です。
 タイピングの時間には、先生の配慮でいちぱん前の席に座ることになりました。隣の席は金髪の
女生徒ゲイルでした。偶然なのでしょうが、彼女は、社会科の時間、私の隣に座っているフランク
のガール・フレンドでした。彼女も授業中、わからないことがあって困っていると私を助けてくれ
ました。
 課目を選ぶとき、数学、物理、化学もとろうとすればとれたのですが、数学ではいちばんむずか
しい科目が三角法でした。それはもう日本で勉強していましたし、物理や化学も日本で習ったこと
の復習のような感じだったので、私は日本では勉強できない課目に焦点を合せました。
もっとも、数学はとりませんでしたが、数学のクラスの生徒たちとは仲よしになりました。
1度習った事柄ですから間題はそれほどむすかしくはありません。数学の宿題に苦しんでいる級友を
手助けすることで、自然に友だちが増えたのです。


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