秋葉忠利著書  卒業 

             アメリカ人とのつきあい方

           2章 エルムウッド・パーク・ハイ・スクール

                     卒業 
  
事実、アメリカの高枝生活の一年を通していちばんエネルギーが爆発するのは、春から夏に
かけてのころ、夏休みの直前なのです。アメリカの北部の冬は長くつづくので、春を待ちこがれ
ます。いったん春が訪れると、それから夏にかけてすばらしい天気がつづきます。冬みあいだ閉
じこめられていた屋内から戸外に出て、あらためて自然の美しさに感動し、すぐにやって来る夏
休みを想像して、躍り出したいような気分になる時なのです。
 アメリカの夏休みは六、七、八月とほば三ヵ月間。学校の宿題もなしに、思いきり自分の好
きなことができるわけですから、これほど楽しいことはありません。家族といっしょに旅行したり、
あるいはアルバイトに精を出してお金を稼ぐこともできます。そうした夏休みが待っているのです。
 また、シニアは卒業を間近にひかえて、社会に出たり親元を離れて大学に入るという自立へ
の期待があります。卒業を記念する催しもいくつかあり、とにかく解放感を味わうことができるの
です。
 たとえば、学年ごとに、その一年の最後を飾るジュニア・プロムとか、シニア・プロムという大ダン
ス・パーティーが開かれます。ほとんどの場合、男はタキシード、女はイブニングという正装でパー
ティーに出かけます。私も生れて初めて、賃衣裳屋から白いタキシードを借りてプロムに参加し
ました。パーティーは、実行委員会が中心になって開かれ、学生たちが何力月も前から準備を
重ねて、一年の終りにふさわしい本格的なものになります。
 卒業式そのものも、アメリカではとても盛大です。四角い黒い帽子と黒いローブ、”キャップ・ア
ンド・ガウン”といいますが、それを身につけて、卒業証書を校長先生から一人一人受けとります。
 私の揚合、一年しか在校しなかったのですが、卒業式に出席でき、卒業証書ももらえました。
授業内容について私が説明し、日本の高校の成績表を見せただけで、残りの分は日本の高校
で勉強したことを認めてくれてOKが出たのです。その卒業証書を文部省が認めてくれたので、
日本に戻った次の年の三月に、私は昔のクラスメートといっしょに大学を受験することができました。
 多くの高枝で卒業式は夜、開かれます。両親が出席できるようにとの心遣いです。サマーズ夫
妻も式にきてくれました。式の後は友だちの家で開かれた卒業パーティーに招かれます。飲み物と
簡単な食事、それに音楽、ダンス、会話が中心です。何人もの友だちがパーティーを開くので、
それを順番に回って「ハシゴ」をする人が大部分でした。
 EPHSの同級生は、アメリカの「ハート」を代表する人たちでした。それほどのエリートもいなけ
ればお金持もいません。「ミドル・アメリカ」はまさに彼らなのです。そういう彼らの考え方、感じ方
が私の一部になったことで、いまでも私はアメリカ社会の息吹を肌で感じることができます。
 一九八五年に、卒業以来二五年目の同窓会が開かれました。一人二人、孫のいる同級生
もいましたが、昔のニックネームを呼び合い、握手をし、抱き合い、肩をたたき合って、おたがいに
「ヘイ、ハウ・アー・ユー」と言うだけで、二五年間のブランクが埋りました。
こういう同級生と人生の一時期を過せたことは幸せだった、と感じました。それが生きるということ
なのかと、ちょっと感傷的にもなりました。


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